仕事帰りに電車で携帯からいつも通りmixiを覗いてみたら、最近知り合った友人が、"友達付き合いのうまい人とは"というリサーチ結果からエントリーを書いていたことからインスピレーションが沸いたので自戒を込めて書いてみたりと。

最近、心底他人に対して憎悪を抱いたイベントがあった。
基本的に綺麗事を口に出してしまい、それを最大限貫いて生きてきたつもりなので受けた衝撃も大きかったし、割と最大限に自分自身も責めてしまったけど、時間の経過とともに気持ち的な浮沈が当初は大きかったものの徐々に小さくなってきた今日この頃。

何があったかと言えば、

* パートナー的な立場からの尊敬の意思がないこと

→ 別に自分の所属する組織や僕自身が世間に誇れるものがあるかと言われれば、ない・・・ただ、組織や自分自身はそれぞれのいろいろな目標を掲げ、それを世の中の最低限のルールに抵触することなく日々過ごしている。その目標の内容や日々の過ごし方は根拠なく否定されるべきものではないし、所属する組織も僕自身も他人やパートナーに対して、"世の中の最低限のルールに抵触しない限り"、コミュニケーションにおいて最低限かつ最大限の敬意を持って接しているつもり、にも関わらず、"(貴社orあなたとは)価値観が違います"だけの一言に始まる感情的な否定のみを並べられた日には対等な関係は破壊されるのみ。。違うのは当然のものとして、そこからいかに信頼を目的かつ手段として、お互いの持ちものを提供しあうか・・・がキーと思い、信じてはいたものの・・・。この観点は対個人であっても、対組織であってもベースは普遍であって欲しいし、違いを見つけるなら、何を目的としていつまでに、どのように成し遂げる・・・等かなと。

* パートナーであるが故にリソースを割く(程度はケース・バイ・ケース)こととその意味合い

→ 求めるか求めないかを別にして(ビジネスの場合、リターンを求める傾向は非常に強くなって当然で、対個人の場合、無償であることもあるし、リターンを求められることもあると思う)、その意味をリソースを割く側もリソースを割く=サービスを享受する側も認識することが必須だと思う。それが相互尊敬へつながるのかなぁと。

今回、対等な関係だったはずの(関係)カタチを徹底的に一方的に破壊されたことは絶対に忘れないと思うし、今も自分が生きてきた中でメガトン級に大きい憤怒であり続けると思う。ビジネスであれば僕が担当を外れた後に誰かがまた手を差し伸べていい関係を再構築してくれるかもしれない、非ビジネスの環境であれば、ある程度の時間が経ったら、また再構築がされているかもしれない・・・けど、ビジネスの立場であっても非ビジネスの立場であっても主体となる僕が抱えることで不要な傷を負い続けても忘れずにいたい。自分の他に対するスタンスを普遍かつ不変のものとして貫き通すためにも。

対組織、対個人で見えるものから見えないものまで全てをイーブンにすることは難しいし、無理ではあったとしても他との関係を"フェア"と言える形に前向きに形成していきたいと思うこの頃です。